Wednesday, December 31, 2014

トルコへの旅 Part 3


10月30日(水): イスタンブール2日目、 スルタンアフメット地区


ほぼ一日中大雨。ファーマン・ホテルで朝食ビュッフェ。ブルーモスクやアヤソフィア、マルマラ海が見えるテラス付きレストランの眺めは素晴らしいが、食べ物には感心せず、どこでも美味しいキュウリとトマト、ヨーグルトを選ぶ。
 蜂蜜入り蜂の巣

ホテルの部屋の金庫が開け閉めできず、修理にくるまで20分ほど足止めを食う。

トプカプ宮殿まで歩く。タイルや窓などハレムの装飾が素晴らしい。













宝物館の写真は撮れなかったが、ルパン三世が盗みそうな、巨大なダイアやサファイアがごろごろ。


Pudding shopでランチ。ナスの野菜詰め。他で食べたナス料理はおいしかったけど、今一つの味。 明らかに観光客向けの店で、場所の便利さと値段を考えるとしょうがないかな。雨に濡れた靴と靴下を脱いで食事。


バシリカ・シスタン(イスタンブール地下宮殿) は、東ローマ帝国の大貯水槽。「007 ロシアより愛をこめて」の撮影にも使われた。

 逆さメデューサの頭



周辺の猫たち。猫おじさんが遅めのお昼をあげていた。
 絨毯屋の店先にいた猫。自分用の絨毯でくつろぎ、爪とぎもしていた。

ホテルに戻り、濡れた靴と靴下を替え、明日のボスフォラス海峡クルーズについて、フロントに聞きながら調べる。

ブ ルー・モスク裏のアラスタバザールまで歩く。キリムのウィンドウショッピング。2軒で色々と引っ張り出して見せてもらい、エドも私もビンテージのパッチ ワーク・キリムが気に入った。今日最後の客ということで、こちらから言わないのに 750ドルから450ドルに値を下げた。もう少し見て回りたいので一応取り置きしてもらう。



バザール横のカフェ・メシャレで夕食。チャイ(アルコールは出さない)、パプリカに米と野菜、ナッツを詰めた冷たい前菜、メインは激ウマのチキンカバブ。



リンゴ味のナルギレ(水タバコ)を吸いながら、トルコの伝統音楽スフィのトリオを聞く。バンドだけでも素晴らしかったが、最後の数曲はダーヴィッシュ・ダ ンスが音楽に合わせて踊られる。イスタンブールの夜が楽しくなってきた!



場所といい内容といい、思いっきりベタな観光客向けのカフェなのだが、値段が手ご ろなのと、ナルギレ(水タバコ)のせいか、不思議とそんな気がしない。混雑したカフェの中で音楽もダンスもあるのに、水タバコは瞑想的な気分を味わわせて くれる。トルコの魅力的な矛盾の共存の一例だ。寒くなければ数時間座っていられそうだった。

もちろん、猫も沢山いた。




ホテルに近いカフェで、私はラク、エドは焼きたてのキュネフェ(チーズ入りの甘いペストリー) 。観光地の中心とは思えない、ものすごく遅いサービス。キュネフェは売り切れだったので新たに焼いてくれたのだが、どうなっているのか何回か聞いても待てというだけ、ほぼ30分も状況を分からず待ち続けることに。キュネフェは、エドのダイエットを忘れさせるほど、とても美味しかった。

ホテルの部屋の金庫はまた開閉に問題が。バスのお湯については、修理しようとした形跡はあるものの、直っていない。外に出れば、立派なターキッシュバスが沢山あるのに、ホテルで風呂に入れないのはどういうことだ!


10月31日(木): イスタンブール3日目。イスタンブール/トルコ最後の日。一日中雨。

ホテルで朝食後、タクシーでグランドバザール。期待していたほどフォトジェニックではなく、ショッピングモールのようだった。


美しいビンテージのパッチワーク・キリムを交渉の上、半額に負けさせ、商談成立。チャイを飲みつつ、慎重な交渉のつもり。最後は、売り手が父親にたぶん偽の電話をして、$1,100が$550に。昨夜アラスタバザールで取り置きしてもらったのと非常に似ているが、もう一度アラスタに戻っても、まだ好きかどうかは分からないので、腹を決めた。キリム自体ももちろんだが、グランドバザールで交渉の上手に入れた、という物語をも買ったのだから。


キリムを置きにホテルに戻る。交通事故のため渋滞でタクシーは乗れず、雨の中20分ほど歩く。 グランドバザール横のモスク。礼拝の時間を知らせる詠唱がラウドスピーカーから流れる中、モスクに入る前に手足を清めている男たち。


路面電車でエミノニュへ。スルタンアフメット停留所のベンチでは、猫が丸くなって昼寝している。ガラタ橋の下の屋台でサバサンドの昼食(6トルコリラ)。


ボスフォラス海峡クルーズの切符を買う(12トルコリラ)。エミノニュ発着で往復2時間の短いクルーズ。有名なサバサンド船が浮かぶ広場を歩く。






ボスフォラ海峡クルーズ



エミノニュに戻る。 ガラタ橋を歩いて新市街へ。橋の上で釣りをしている男の一人が、グロテスクな赤い魚を釣り上げていた。


世界最短でロンドンの次に古い地下鉄(テュネル)に乗って、イスタンブール一の繁華街ベイオール地区へ。
 

地下鉄を降りると、メインストリートのイスティクラル通り。古い建物が立ち並び、人々で 活気あふれる通りだが、裏道はさらに魅力的!


 裏道


アタトュルクのファーストネーム、ムスタファという名の、地元の若者が集まるヒップなカフェ

  古書店 Denizler Kitabeviや土産物屋をひやかし、手作り陶器の小皿とボウルを購入。




 


土産物屋のオヤジにメイハネ(居酒屋)通りの場所を確認。美しく並べられた果物や魚、美味しい顔のオヤジや猫を眺めながら、裏道を歩く。




居酒屋通り(Nevizade Sokak)に到着。トルコ共和国建国の父アタトュルクのバナーが。
 

よさそうな店(Imroz)を見つけて入ったら大当たり。イスタンブール最後の夜にふさわしい食事となった。マリネしたサーディン、タコのサラダ、ハマス、チーズを詰めたスパイシーなピーマン、イカのフラ イの美味しい小皿料理に、メインは 新鮮なシーバスのグリル。ラクが、食べ物の味をさらに引き立ててくれる。


フレンドリーでハンサムなベテランウエイター

隣のテーブルでは、地元の男たちが45年ぶり(?)の高校の同窓会。ラクを飲みながら(スターターは、フェタチーズに似た羊の乳の白いチーズ (beyaz beynir)とメロン。わいわいと、すごく楽 しそう。

食後、メインストリートのCD&本屋で、エドはトルコの伝統音楽CDを大量に購入、私はトルコ映画のポスターの本を入手。




食事前に入った、アーケード状の裏道に戻る。クールなビンテージ&コスチュームショップBy Retroで、魅惑のHappy Halloween! この店、食事前は開いていなかったのに、9時過ぎたら興味深い人たちが。夜から開くビンテージショップというだけで、イスタンブールのナイトライフの充実ぶりがうかがえる。次回はぜひクラブに行くぞ!





9時過ぎても営業中の床屋

 カフェでチャイ。 バックギャモンをする青年たち。



メインストリートを駅まで戻り、ホテルまでタクシー。さよならイスタンブール、I Love you!

NYに戻ってからも旅の興奮覚めやらず、ラクを飲み、トルコ音楽を聞きながら、短い旅で見聞きしたことを元に、トルコについて考えてみた。トルコに対する筆者の愛が伝染する読みやすい筆致で描かれた、トルコについての優れた観察と分析である、Stephen Kinzer著「Crescent & Star」に、大いに助けられた。今までは見たことのなかったトルコ映画も、自分が見えなかった部分を補ってくれる。私が見た芸術映画数本の中では、都市イスタンブールと農村の違い、根強い家父長社会における女性の地位の低さなどのテーマが多かった。ちなみに、世界経済フォーラムが2014年に公表した、男女格差指数では、トルコは142か国中125位、日本は104位だ。

共和国成立記念日の10月29日、イズミール空港の本屋をのぞくと、新聞の一面はどれも、トルコ共和国建国の父アタトュルクの写真が大きく載っていた。伝記コーナーにもアタトュルク関連の本がたくさん。

対照的に、その向かいには、コスモポリタンやエルなど欧米ファッション誌のトルコ版が目につき、現在のトルコを表していて興味深かった。

前述した、イスタンブールの繁華街のヒップなカフェでさえ、アタトュルクのファーストネームであるムスタファという名だった。居酒屋通りにも、通りのど真ん中ににアタトュルクのバナーがかかっていた。グーグルで写真検索したところ、建国記念日の週末に限らず、いつもかかっている様子。世俗国家を目指し、ラクを愛したアタトュルクの写真が、居酒屋通りに掲げられているのは、適切というか興味深い。

アタトュルクは世俗国家の中の宗教であり、その個人崇拝ぶりは、北朝鮮などの独裁国家をほうふつとさせるが、一方ではセクシーでファッショナブルな女性が雑誌の表紙を飾る。ターキッシュ エアラインズの機内で配っていた、イエローペーパーらしき新聞も、ついもらいそこねたが、隣の席をのぞいてみたら、水着やハリウッド女優風のお姉ちゃんが氾濫していた。

一方、町の中心にあるモスクのラウドスピーカーからは、1日5回ある礼拝の時間を知らせるアラビア語の詠唱が聞こえてくる。国教はイスラム教と聞いたほうが、無宗教な人間にはまだ分かりやすいが、トルコは1923年に共和国になって以来、世俗主義・政教分離を柱としてきた。国民の99%はイスラム教徒だが、一日5回祈り、酒を飲まない厳格なイスラム教徒ばかりでもなく、割合はわからないけど、ゆるいイスラムも許容されているようだ。観光客相手に酒を出すだけでなく、地元の人たちもラクを飲んで楽しげに集っている。短期間の旅行者が見た範囲ではこれが限度だが、内情はさらに複雑なようだ。

共和国になったトルコは近代国家を目指した。アタトュルクが示した、近代国家としての政治方針はケマル主義とよばれ、その3本の柱は、最初に「国家」という抽象的な概念(の安定)、次に世俗主義、最後に民主主義である。民主主義は最初の2つと衝突しない限りにおいて保障される。


条件付き民主主義となったのは、トルコ共和国建国当時の背景が理由だ。オスマン帝国軍の高官だったアタトュルクは、第一次世界大戦に負けたオスマン帝国を、連合国側による領土分割の危機から救ったが、彼がトルコ共和国を建国した後も、その国内外において不安定な状況だった。独裁者アタトュルクは、無知で後進的な一般民衆の決断能力を信用せず、上からの革命を行った。実際、イスラム世界の帝国だったオスマン帝国が600年以上も続いた後で急激な世俗化や近代化を行うには、上からの革命が唯一効果的だっただろう。

内外の脅威に脅かされている不安定な国家を維持する上で、イスラム教は世俗国家としての存在を脅かす存在としてみなされ、国家宗教でなくなったにもかかわらず、政府によって管理されてきた。現在でも、宗務庁(Presidency of Religious Affairs)という政府組織が全てのモスクを管理し、全てのイスラム聖職者の給料を支払っている。世俗国家とはいえ、信教の自由が保障される民主国家としては、信じない自由だけでなく信じる自由も保障されなければならないのは言うまでもない。しかし、1938年に死亡するまでに独裁者アタトュルクが行った、上からの世俗化・近代化革命はあまりにも急だったため、現在に至るまで、イスラム教徒側からの反発が度々起こり、政府はそれを弾圧してきた。

宗教の自由だけでなく言論の自由も同じ理由で制限され、憲法は、反国家的またはトルコの歴史的・倫理的価値観に背く、或はアタトュルクのケマル主義に背く言論の自由は保障されないと明記しており、多くのジャーナリストや芸術家が国家侮辱罪などの罪で起訴・投獄されてきた。トルコ人として初めて2006年にノーベル賞を受賞した作家オルハン・パムク(写真)も例外ではない。政府がその存在を認めていないアルメニア人虐殺問題に言及したためだ。

ユルマズ・ギュネイ監督によるトルコ映画「Yol(路)」(写真)は、一週間の帰宅を許された囚人たちの視点から、1980年の軍事クーデター後のトルコを描いた傑作だが、同監督の作品の殆どは国内で上映禁止されてきた。監督は獄中から助手に演出の指示を行い、その後脱獄してフランスに亡命、82年に作品を完成させた。

こうした言論の自由にたいする圧力は、トルコがEU加盟を目指すうえで大きな障害となっている。

ケマル主義を守ることが、軍部によるクーデターの名目ともなってきた。愚かな国民の代わりにアタトュルクに代表される軍部エリートが国家の意思決定を行うという体制は、無学な農民が大多数だった建国当時は適切だったが、より多くの国民が教育を受け、トルコの国内外は敵だらけというパラノイア的な観念が現実に即していないことが認識されてきた今では時代遅れの概念だ。

2013年にイスタンブールのタクスィム広場で起きた大規模反政府デモ(写真)が示すように、現在ではトルコ国民は自分たちの限定的な自由に気付いている。デモ参加者は、エルドアン政権が近年人々の自由を圧迫しており、首相の保守独裁的傾向に抗議した。

人々がついに大きな抗議行動を行い始めたのは希望材料だが、昨年と今年秋のデモ(イスラム国対応を巡り、クルド人が行った政府への抗議)では共に死亡者が出ている。警察とデモの衝突により、昨年のデモではトルコ全国で11人が、今年秋のデモで約40人が死亡している。アメリカでデモに参加して、警察に逮捕されることはあるが、死ぬことはありえない。その道のりは困難とはいえ、トルコが民主化途上にあることを示す例だ。

しかし、12月2日には、警察による捜査権限を拡大する法案がトルコ議会で可決された。トルコのEU加盟に向けての民主化の試みとして、警察権力を制限するよう今年課せられた規制を緩和するもので、「具体的な証拠に基づく強力な容疑」がなくても、「合理的な疑い」だけで、「憲法秩序を妨害する」容疑に対しての捜査が可能になる。同法案の支持者は、死傷者の出るデモを防ぎ、秩序維持のために必要だと述べているが、現政権の批判者は、エルドアンが政敵と見なす、米ペンシルバニア州在住のフェトフッラー・ギュレン(Fethullah Gullen)師への対抗措置と見ている。

また、12月24日には、アナトリア地方の都市コンヤでデモに参加した16歳の少年が、政府の汚職と新たな豪華大統領官邸を巡り、エルドアンを侮辱したとして逮捕された。

現大統領のエルドアン(写真)は、親イスラムの公正発展党(AKP)を率いて2003年に首相に就任して以来、EU加盟を提唱する一方で全方位外交を行い、世俗主義を提唱する軍部の影響力を弱め(国務を広く掌握していた、軍が支配する国家安全保障会議を文民統制下に置いた)、世俗国家の中でのイスラム教徒の地位を訴えてきた。EU加盟を目指す中で、女性の権利改善など人権問題の一部が改善され、安定した経済成長もエルドアンの支持率を高めた。

2001年に出版、2008年に改定された「Crescent & Star」は、エルドアンの反動要素を不安材料としながらも、自由民主主義の擁護者として期待とともに支持している。しかし、政権が長くなるにつれて、同著が心配した反動要素を強めており、軍部に代わるエルドアンの独裁傾向が見られる。8月から現首相の アフメト・ダウトオールは、前外務大臣でエルドアンの主席顧問でもあった。ダウトオールは13年の反政府デモを激しく批判しており、デモを防止する新たな措置を政府が提案したことから、トルコを警察国家にするとして批判されている。

世俗主義に基づく女子学生や女性公務員のヘッドスカーフの着用禁止はエルドアン政権下で解かれたが、11月には、女性は男性と平等でなく、イスラムは女性の地位を母であることと定めていると述べ、12月には、避妊はトルコの成長を妨げる国家反逆罪と述べるなど、エルドアンの発言は度々物議を醸しだしている。

11月にイスタンブールで米水兵を襲撃した超国家主義団体のYouth Union of Turkey (Turkish Youth Union) など、ケマリズムが反米及び暴力と結びついた危険な反動の例も見られる。同団体は、エルドアンの提唱するEU加盟にも反対しているが、エルドアンの政党AKPは、同党を支持する票田の重要な一部である超国家主義者たちの制圧にはあまり関心を示していないのが懸念される。ちなみに、革命を起こす前の青年将校時代のアタトュルクは、Young Turksと呼ばれる反政府団体に所属していた。

しかし、何といっても、イスタンブールの活気はトルコの将来に対する希望そのものだ。去年訪れた、隣国ギリシャの首都アテネと比べてはっきりわかった。3日間のうち2日雨に降られたにもかかわらず、ぜひまた訪れたいと思わせる、東と西が居心地よく融合し、観光客も地元の人たちもそれぞれの楽しい時間を過ごせる都市。民主化への道のりは、デモ弾圧を含めてまだ多難そうだが、一度火が付いた民主化の波が逆行するのは難しいだろう。


イスタンブールのメインストリート、イスティクラル通りの古書店の看板猫